「まざる」ということ


まざるテラスを始めるとき、古くからの大事な友人に「こういうことをやろうと思うんだ」と端的に話したら、「それはとっても面倒くさいんだろうね、でも大事なことだね」と返ってきた。

私が思う「まざる」というのは、「色々あって楽しいね! あなたのことも分かったよ!」……ではなくて、「色々あるんだね、私には分からない。でも、あるんだね」ということなんだな、と思った。


「分かる」ではなくて「分からない」の「まざる」。

昔システム業界の仕事人間であったとき、広告業界の人や研究系や人事、色々な業界の方と集団で触れるたび「業界ごとに似た空気の人が集まっているんだな」と感じた。選択を重ねてきた趣味嗜好の方向性、何かしら似てくるのだろう。

生まれて「まざる」。

そこから思想・能力等で自他カテゴライズされ、だんだんまざらない世界。

学生は学生同士。
アニメ好きはアニメ好き同士。
独身は独身同士。
学校教師は学校教師同士。
親子は親子同士。
高齢者は高齢者同士。

価値観も同じ、話題も共通、「分かる」世界は、楽チンで居心地がいい。

でも、皆で楽チンな「分かる」世界に安住し続けていたら……

「分かる」を越えない世界はシャッターで閉ざされ合い、存在への関心が皆無だったり、とことん「自分たちではないもの」として糾弾し合えてしまう。

存在価値を認め合えない。存在を知らない。

不寛容さ/トータルとしての息苦しさが加速していく恐れを感じる。

だから、「まざる」。

分からない」に出会う。面倒くさい。瞬発的な息苦しさもある。そこから、「でも、あるんだね」に、皆で踏み出す。

そういうことの積み重ねで、世界はもっと優しくなる気がします。

最近「まざる」ということに快楽を求めていたかもしれない自省と共に、そんな感覚を思い出して、改めてここに記述しておきます。

※以下は、まざるテラスを手伝ってくださるMさんの話と自分の感覚が重なりながら浮かんできたマンガです。




私は私、だろうか。
そこにいるあなたが明日の私かもしれない(し、そうではないかもしれない)。
うまれて、視点の旅へようこそ。
描きたいシーンを描き切れていませんが
(例えば、配偶者がよその子に「おじいちゃん」と呼ばれて「あら私たちそんな年齢!」つい吹き出されているエピソード等も入れたくありました)

他に伺った「嫁だった時の二世帯住宅、姑になっての二世帯住宅」視点が変わっての心情の話も、とても胸に沁み入っています。

この世界には「知らない/分からない」が無数に広がっています。

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