【報告】この映画が撮っていたのは「奇跡」でした。「チョコレートケーキと法隆寺」上映会&対話会
2018年3月9日(金)、まざるテラスで映画(さらに「子供の問題に向き合う」)という初の試み――「チョコレートケーキと法隆寺」上映会&対話会。
監督運営も含め【昼:大人26名+乳幼児10名】【夜:大人21名+中学生1名+幼児8名】で、貴重な時間を過ごすことができました。
昼の軽食は「カオマンガイ風」夜の軽食は「煮込み豆腐ハンバーグ」作り方をみんなで共有しつつ |
手作りチョコレートケーキ、沼袋「潮の路」コーヒー、Fさん!Aさん!差し入れ嬉しすぎます! |
場には0代から70代の方まで、男性も女性も、育休中だったり無職だったり(←「子育てだって仕事だよ〜!」と叫びつつ)勤務中だったり区長立候補中だったり、保育士、教員、里親、養子経験、中学生、施設出身、僧侶、友人の紹介、地域でチラシを見て、様々な立場の方が様々な背景で来てくださいました。
皆さん、改めてありがとうございました!
昼は「ガヤガヤ」と |
夜は「静かにどっしり」と |
昼と夜で参加者は異なり、当然ながら雰囲気も対話の流れも違いましたが、どちらも非常に濃密で感慨深い時間でした。
※夜の部、軽食の机を離せばさらに参加者の対話が進んだと反省。次に活かしますm(_ _)m
※司会がいると話しやすいかもしれません。が、場の化学反応(まざる)を大事にしたく、今後もできるだけ交通整理しない方向でまいります。「他の話も聞きたい」「ちょっと待った!<乱入>」は、皆さんのパワーに託させてください!m(_ _)m
報告をまとめたいと思いつつ、子供たちが春休みに突入したり風邪を引いたり、何より「この感覚をどう上手にまとめられるか」何度も何度も、映画のシーン・対話の言葉、スルメのように噛み締めていて遅くなりました。
以下、参加してくださった方々の感想をまぜながら、報告記事といたします。
(これはあくまで「今回の上映会&対話会」の記録であり、私の恣意も含まれているかもしれません。きっと見る人や対話の相手によって印象も感想も新しくあるはず、それだけの重みと深みのある映画です。主人は「まず純粋に描写・構図が美しい」と呟いてもおりました)
この映画が撮っていたのは「奇跡」でした
<向井監督がとても普通の青年でしたね。(映画の中の)お友達たちも、勝手にもう少し暗いイメージを想像していた自分の思い込みに反省です。>施設での苦しさ、そこに来たそれぞれの背景、施設を出た後の生活、淡々と綴られていきます。
最後に語られる「悲しみの場所で出会った仲間たちとこれからは生きていく」——爽やかさすら感じる皆の笑顔に「心に刺さる内容満載だったが、結びがあっさり?」パッと見た時、私もそう思いました。
(「当日まっさらな状態で皆と一緒に見る」などと申しておりましたが前夜に助言「運営の主軸が当日見る余裕ないよね」慌てて夜中に鑑賞しましたごめんなさい)
でも、そうではない、あっさりな結びと思えること自体が、私が問題なく生きてきた証拠。これは「奇跡」を撮った映画、理解の遅い私にそれが本当にグッと落ちたのは、最後の最後のことです……
「子供には子供の集団経験が必要だ」と児童養護施設
<毎月の誕生日会のぱさぱさしたチョコレートケーキ、招待されたイベントでのお礼の代表あいさつ、仲良くなっても家族のことは話さない暗黙のルール、ランドセルに書かれた違う苗字、壊された差し入れのおもちゃ、長期休暇中も施設に残っている子供たちの妄想や嘘、子供たちの間でのいじめ……。淡々と語られているけれど、これを小さな子どもが、小さな胸で受け止めるのはあまりにもしんどい。実際にはもっとたくさん、いろいろな人のいろいろな言動に日々ガッカリしたり、びくびくしたり、傷ついてきたのだろうと思う。悲しい。>
<人生80年の中で子供時代なんてわずかな期間。しかも子供時代の記憶なんて実際は写真を見て断片的なシーンを思い出せるくらいでしかない。でも、それなのに幼少期の環境がその後のその人の長い人生をほぼほぼ決定づけてしまうのも事実だと思う。>
<子どもは親を選べない。うちの息子だって、もし今、私たち両親が2人とも事故で死んだら、全く違う人生になってしまうと思う。人生は本当にそんな不確かで理不尽な上に成り立っているんだと最近つくづく思う。だから、どんな家庭や運命に生まれたとしても、それが理由でその人の人生が生きづらいものになったり将来の選択肢が狭まったりしないような社会の仕組みを作るのが、今生きている大人の使命だと思う。>私は昨年から、週末里親(東京「フレンドホーム制度」)をしています。児童養護施設にいる子を月1回ほど週末迎えに行って、家族みんなで遊びます。
父母双方が働く社会で保育園が当然のようになって、過去の圧迫「小さいのに保育園かわいそう」を完全に封殺したいかのように飛び交う言説「子供には子供の集団経験が必要だ」——その視点でいうと、保育園以上に「子供の集団」児童養護施設は最たるもののはずです。
でも……施設の広場で遊んでいる子供たちを見た時と、一般の公園で遊んでいる親子たちを見た時の、印象の違いは何なのでしょう。
まざるテラスで1F2Fをかけまわる子供たち、先にごはん |
映画で描かれている施設の思い出「体罰をする職員よりも24時間一緒にいる上級生(子供)が怖かった」「施設では兄弟といった血縁の観念は希薄になる」同質的で固定された集団でのサバイバルを感じました。
週末里親をしていて、施設まで送る時に「まだ帰りたくない」「次はいつ来るの」そんな子供に対峙していると、一般家庭を教えながら施設に戻す……今とても残酷なことをしているのではないか、何も知らないほうが比較対象もなく幸せではないか、そんなことを思うことがあります。
<週末里親は辛いです。だから私は里親になりました。でも、施設にいる子にとって週末里親は大事です。一時的にはその子にとっても妬みや悲しみになるかもしれない、でも長期的に見たら、その子が人生を選択する時の糧になる。大人同士もケンカすることを知る、大人の趣味に触れる、知っている職業の範囲が広がる、大人が意識していなくても子供の幅を広げることになるんです。>大人は意識していなくても、子供は大人の世界も含めた世界の多様性を勝手に吸収していっている。それが、人生の糧になる。
子供たちが意思表示する大切さ
シングル家庭を支援している方の質問「頼ってくれたら対応する用意がある、でも何か壁がある、その壁は何だろう」に、施設経験者の方が「その人が大事であればあるほど嫌われたくない、ようやく捕まえた手に<待って>と言われるのが怖い、それなら適当に一人でがんばろうと思う……その積み重ね。先生にとって意思表示しない子がお利口さんなので」そうして「自分の意見を言えない/言わない」になっていく……。その檻を外すためには、「小さい決定権と達成感を少しずつ」。
「意思表示しない子がお利口さん」この言葉は、実親中の私にも刺さります。「生意気いいやがって……」「わがまま!」子供たちの対応でドタバタする日々、分かる、先生の気持ちも分かる。でも、わがままでいいんだ、自分の意見をつむいでいい、我が子たち(そして世界の子供たち)が自分に素直でいられますように。
大事なのは「地域の子育て支援」の充実
現在、社会的養護は「施設は大舎化から小舎化へ、家庭養護(里親)へ」の流れです。
しかし、「小舎化になって職員の退職率は上がっています。職員も子供を大切にしたくても密着した試し行動で心身ともにボロボロ」(家庭が小さくなるほど担い手の閉そく感と負荷は高くなる?)「養子縁組は不調が高いのに、養子が施設に入ると実子カウントなので数字として見えていない」という話がありました。
施設にいる子の背景も、色々です。虐待を受けた、親が病気になった……一括りにはできません。向井監督のお父さんは突然シングルとなり、頼る血縁もおらず子供3人と途方にくれ、施設を頼ることになりました。本当に本当に切ないですが、実親の今はジンジンと染みて状況が分かる気もします。しかし、「小舎化になって職員の退職率は上がっています。職員も子供を大切にしたくても密着した試し行動で心身ともにボロボロ」(家庭が小さくなるほど担い手の閉そく感と負荷は高くなる?)「養子縁組は不調が高いのに、養子が施設に入ると実子カウントなので数字として見えていない」という話がありました。
<何かあった時まずはファミサポや2泊3日ショートステイでの手助けが大事。1週間以内の預かりなら家庭に戻れる。そこを間違えるとそのまま家庭に戻れないことが多い。長期の預かりが始まると、親にとってもそれが日常となってしまうから。>
里親で委託費が出ているにも関わらず、洗濯も週1回であまり世話をされず育った里子の方の話も聞きました。
実親にも色々な実親がいて、心底優しい実親もいれば虐待してしまう実親もいる。施設にも色々な施設があり、良い施設もあれば悪い施設もある。里親にも色々な里親がいて、想いのある里親もいればお金目当てな里親もいる。
上の貴重な感想にもありましたが、私も夫もいつ死ぬかなんて分かりません。「今は死なないよね」と、真剣に向き合っていないだけ。どの親にだってある、シングルになる可能性。両親ともにいなくなる可能性。その時に我が子たちはどうなるのか。血縁に頼れるのか。施設に頼れるのか。里親に頼れるのか。どうしたら「子供たちを残して逝く可能性」に安心して向き合えるのでしょう。
他にも、フィンランドの事例紹介、保育現場や施設現場での話、社会の仕組みや働き方、色々な対話がありましたが……
(ちなみに、世界には「ここの社会的養護は最高だよ!」という施設、あるのでしょうか。あれば、仕組みや運営や知りたいです)
<中学生ごろから赤ちゃんや子供たちとの関わりの機会があるといい。実際に接することで「乱暴に扱ってはいけないんだな」「子供は大事にしなければ」が分かります。そういった経験が将来の子供の扱いにつながります。今は縦の関係がなくて横の関係しかないから、思いやりも薄くなっていると感じます。>
<今のママさんたち、本音で年代の違う私たちに助けて欲しいと思える?>といった質問もありました。私は助けて欲しい、というか、まざりたい! でも「縦の関係は面倒くさい」という層も一定数いるでしょう。でも、きっとそこを超えられたら、何かあるかもしれません。
「寄付が好きだったが、ある日、自分こそがその寄付で支援される立場なんだと気づいた。その日 から寄付への興味はなくなった」(うろ覚え)——映画の中の独白。
<同情をされることのつらさ、肉親への相反する思いなどの描写が心に残っています。>施す・施されるでない、上からでない、支援のあり方。「(実親も里親も施設も)色々がある」を前提とした、地域の子育て支援のあり方。
子供たちの育ちに必要なものは何なのか
両親との生活、そして施設、施設を出て再び実のお父さんとの「途中から家族になることはあまりにも難しい……」日々を過ごした向井監督。今、または振り返って、親的なもの(実親でも里親でも施設職員でも)に求めている/いたのは、何だったのでしょう。そんな曖昧な問いにも、考えて答えてくれた向井監督。「引き上げるとかではなくて、寄り添ってくれる人……でしょうか。ただ、自分が立てるようになったとき、いるよ、と、そこにいてくれるだけで。」ハラハラと答えにくい質問もあった中、向井監督はずっと真摯に向き合ってくださいました。
「(これからの作品について)映画というよりやっぱり中身に、福祉に興味があります」
勇気あるドキュメンタリー映画「チョコレートケーキと法隆寺」、向井啓太監督、そして映画に出演してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
この作品が広く多くの方々に届きますように。これからの活躍も全面応援しております。
ようちゃんの手紙の黒く塗り潰された部分に、奇跡を見ました。
心のどこかで「向井監督のように親を越えてくれたら親冥利につきる」という声も聞こえます。しかし、それは「今を見れば」であり、そこまでの険しさを推し量ると……辿り着くために色々な要因が揃う必要があったでしょう。施設の友人ようちゃんから「対面では話せない」と向井監督に届いた手紙。家族のことや今の自分を振り返る手紙で、黒く塗り潰されていた文章こそ、奇跡のひとつでした。
奇跡が起こらない子供だってたくさんいる。現に、ホームレス支援も行っている沼袋「カフェ潮の路(つくろい東京ファンド)」さんで「ホームレスには社会的養護当時者(18歳以降は措置解除となり住居等も基本自己負担)が一定数いる」とも聞きます。
「奇跡」が、どの子供たちにもたくさん起こりますように。
<家族でなくても、電話できる人がいるかどうか。(例えば週に1日でも)支えになる時間があるかどうか。>
<「子の育ちに血縁は必要か?」の深い問いに考えさせられることが沢山あった。やっぱり子供に関わる全てにおいて改善や充実が必要だなと感じた。地域の子育て施設全てにおいて「人や機会にコストをかけよう」となって欲しい。 また映像の中で、向井さんは井上先生に会えたことで今の自分がある(だったかな?)と話していた。友人ようちゃんの向井さんへの思い。子供たちは育ちの過程でどんな人に出会えるか。自分のメンターのような人に出会えるかは、大きいことだと改めて感じた。 大人がその機会を作ってあげること、また既にある機会を奪ってはいけないと思った。>大人の幸せも、大人の悲しみも、背負って生きていく子供たち。
「奇跡」がどの子供たちにも起こるように、大人たちができること。
一緒に考えていきましょう。
<黒く塗り潰された部分に何が書いてあったと思いますか?>
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